はじめに
本作品は、昨年掲載したトリニティ自警団SSを小説風に書き直したリブート版になります。
拙い作品ですが、最後までお読みいただけたら幸いです。
本編
プロローグ
時計の針が頂点で揃った時、淡い月光が雲間を縫うように流れ、静穏な室内にそっと降り立つ。
その銀線は寝具の縁をなぞり、シーツに零れる純白の長髪を泳いだ後、やがて少女の瞼に触れた。光の囁きに応えるように夜気を喫んだ胸が緩やかに上下する。
少女は音のない涼夜に微睡んでいたのではない。ただ、その刻が訪れるのを粛々と待っていただけだった。
今日で三十日――正義実現委員会から科された仮初の自宅謹慎に別れを告げ、自警団として闇夜へ舞い戻る日。
その名に刻まれた清光に手を引かれ、上体がむくりと起き上がる。細い手指は胸元に添えられ、心底に銘記したものをなぞるように滑る。
見返りも報酬も必要ない。
灰色に薄汚れたこの手にも誰かを守れる力があると信じて、この楽園の境界線で再び闘うことを誓おう――。
少女は蛇口から弾ける流水を両手で掬い掌にできた湖に顔を沈めた。雫が滴り落ちるのも構わず顔を上げた先に佇む、ガラスの奥のもう一人の自分。左頭部の白翼が落とす影に口元を奪われ、そこに映るはずの表情が掴めない。闇夜に揺蕩う篝火を思わせる真紅の双眸は、まるでこちらを値踏みするように据わっていた。
――本当に、闘えるのですか?
音源の見えない湿った籠り声が耳を逆撫で、頬を滑る雫と冷汗が融け合う。束の間の深慮の後、少女はタオルで顔を拭いガラスの奥の視線を強引に断ち切った。籠り声の主に答えを返すことも無く。
洗面所を後にして木製のドレッサーに背を向けながら灰色の制服に袖を通す。輪郭の揺らぐ身体を明瞭に描き直すように襟元の紅いリボンとコルセットベルトを強く絞った。続けて閃光弾を机上に置き、予備弾倉、応急処置キットで列を整える。出撃を心待ちにする“パトロール”を支える陰の立役者たち。彼ら全員を身に収めた瞬間、制服が僅かに軋みを上げた。
いつもより重い――ポーチに押し込まれた余剰装備たちが胸中の不安を代弁していた。
少女は暗霧を払うように首を短く左右に振り、左袖に縫い付けられた自警団の証を掌に収める。数多の戦場を共に駆けたそれは、傷を刻みながらも今なお鈍い輝きを放ち続ける勇気の証明。
一度は取り上げられたその証を再び掲げる意味を咀嚼し心の奥底へ押し込む。
束の間フローリングに落としていた細い視線が、無意識にガンラックで鎮座する愛銃に引き寄せられた。駆け寄るように歩を進め正面から見つめ直す。表層に薄く積もった埃がパートナーに必要とされる刻を粛然と待っていたことを告げていた。
――お待たせしてすみません。
少女は優しく撫でるように埃を祓い点検に移った。マガジンを外し装填数の確認。チャージングハンドル、ボルトキャッチ――離れていた距離を一歩ずつ埋めるように、各種可動部に流れるように指をかけ感触を確かめていく。
点検に見切りをつけ、グリップとハンドガードを深々と握り射撃姿勢を作る。掌に沈み込む冷えた金属の確かな質量。実際は謹慎中も傍にいた。だが、こうして構えるのは一ヶ月半ぶりだった。
再会――不意に脳裏に浮かんだその言葉に小さく息を呑み、抱き寄せるようにストックを右肩に強く押し当てる。
射撃姿勢を解いた後、少女はふと誰かに呼ばれたように振り返り窓の外を見やった。
地平線まで覆う夜の帳。延々と続く宇宙のキャンバスに完璧な円を描く月が、漆黒の背景に柔らかい濃淡を与えている。窓枠に縁取られた名画に少女の紅い眸は奪われた。清澄な水晶体が夜空の主役にフォーカスする。
“あの夜”も、同じ月が空にあった――胸の奥底に広がる大海が静かに波音を立て始める。
やがて夜空にかかる的礫のスクリーンに古い映写機のように在りし日の記憶が朧げに浮かび上がった。
今宵開演するのは、少女だけが知る秘密の劇場。
淡い月光に優しく抱かれながら、意識を事件の始まりを告げたあの日へと、緩やかに沈めていく――。
地球の自転が止まったのかと思うほど、長く、深い夜だった。
託された光と、その裏に落ちる影を抱いて、私はトリガーを引いた。
正義と罪の境界で迎えた、あの朝日の温もりを、忘れることはない。
――これは、歴史に記録されることのなかった、私たちの真実の闘いの軌跡。
過ちの螺旋
数千の学園から構成される学園都市キヴォトス。その中でも三大学園の一角として数えられるトリニティ総合学園は夜の帳に包まれ沈黙していた。
天を衝く尖塔と精緻な彫刻、鮮麗なステンドグラスに彩られた聖堂群。石畳の街路に祈りの影を落とす荘厳な都心部も、今は立ち並ぶガス灯によって輪郭が淡く揺らいでいる。
――そんな灯りの外側にも夜は等しく広がっていた。そして、光の届かぬ学園自治区の外れで、ぽつりと灯影を落とす部屋が一室。
一人の少女が壮麗なアンティークチェアに深々と腰掛け、受話器を片手にダイアルを悠然と回す。銀盤から離れた指先はやがて机上のティーカップへと移り、少女は湯気立つ紅茶を口に運びながら尖った視線を部屋にゆっくりと巡らせた。
壁一面を覆う関係図の付いた政界人の顔写真。何も起きていないはずの地点に穿たれた赤印が目を引く学園自治区の地図。机上に並べられた無数の受信機とデスクトップ端末――。
美術セットを思わせる大袈裟な空間。だが、シネマカメラも撮影監督もそこには存在しない。卓上に据えられた古風なランタンの橙色の灯火が室内を奇しげな静寂に閉ざしている。
――しかし、静寂は少女の孤独を意味してはいなかった。
何色にも染まらぬ漆黒のセーラー服。
真実を覆い隠す黒のベール。
救護と慈愛を象徴するキャップの十字架。
この時間、この場所には似つかわしくない学園の生徒たち。
ファスナーの擦れる鈍い音と共に、教科書が収まっていて然るべきはずのスクールバッグから冷たい金属の輪郭が覗く。机上に整然と並べられていくのは分解済みの銃火器たち。彼らは布で丹念に拭われ、人の手を渡り歩き、人類の進化過程図のように本来の姿を取り戻していった。積み上げられていく銃火器や薬品に住所となる識別タグはなく、剥がされた痕跡だけが白く薄く残っている。しかし、それらを扱う彼女たちの袖に残る校章はまだ剥がされてなどいなかった。
不穏な空気が充満する部屋の全ては、奥に座す少女の刺すような沈黙によって秩序づけられていた。
「私だ……例の件だが、手筈通り進んでいるか――」
少女の声が静寂を鋭く切り裂く。その声色は、ただ事実を照合するのみの冷然な響きだった。
「――分かっている、“借り”は必ず返す……。じきにトリニティは生まれ変わる――いや、変わらなければならない。これ以上、ゲヘナとの小競合いや、無益な政治ごっこの駆け引きなどに、生徒の意志を弄ばせはしない。この学園は私が導いて見せる……」
短いやりとりの最中で少女の双眸が一度だけぎらりと色を変えた。静謐な語り口の奥底で揺れる誓願の焔――学園を蝕む政治腐敗への嘆きが先ほどの無機質な声に確かな重量を与える。
返答を待つ僅かな時間、少女は机上の報告書に視線を走らせた。行間を埋めるのは、組織間を巡る資金の流れ、部員一人ひとりの学籍、装備の保管状況や警備の巡回経路、医療記録から患者の状態――そこには学園の内情が過不足なく記載されていた。
やがて文字の大海を泳ぐ目がある岸辺にたどり着く。陽のない砂浜に刻まれていたのは政府予算の奪い合いによる派閥間の対立、政界を揺るがす汚職に不祥事の数々。
――醜いものだな……だが、今の我々にとっては都合がいい
憐憫を湛えた眸と抑えきれない昂ぶりに震える唇。口角は僅かに吊り上がり、不均衡な笑みを浮かべたまま、少女は送話口へ低く言葉を滑らせた。
「貴様はこれまで同様、書斎で悠々と見物していればいい。“アリウス”のように大掛かりなことをしなくとも、この学園は容易く落ちる……。それを今回の計画で証明してみせよう」
♰
アリウス分校――かつてトリニティ自治区に存在した数ある分派の一つ。長きに渡る分派間の紛争を終結させるべく諸派の統合に向けて開かれた「第一回公会議」において唯一反対の立場を取り続けた派閥でもある。その結果、「フィリウス」「パテル」「サンクトゥス」の三つの主要校を中心に連合を果たしたトリニティ総合学園によって排斥され激しい弾圧を受けることとなった。自治区を追われ逃げ延びた先で窮乏した生活を強いられていたが、突如現れたキヴォトスの外側の存在、「大人」によって環境は一変。潤沢な装備の提供と過度な戦闘訓練、そして歪んだ思想教育によって学園は瞬く間に掌握され、生徒たちはベアトリーチェの野望を実現するための尖兵と化した。
そして、歴史的な対立関係にあったトリニティ総合学園とゲヘナ学園による不可侵条約――「エデン条約機構」調印式に際して、キヴォトスでは未知の技術であった巡航ミサイルと霊体兵器「ミメシス」を用いた大規模なテロを敢行。復讐の対象であったトリニティ総合学園の三頭政治の虚を突き絶望の淵に追いやるも、キヴォトスの行政組織である連邦生徒会直轄の機関、連邦捜査部S.C.H.A.L.Eの「先生」の介入と多くの生徒たちの勇気ある行動によって計画は打ち砕かれた。
指導者であったベアトリーチェの失踪、精鋭部隊スクワッドの逃亡により長らく無政府状態が続いたが、和解を申し出たトリニティ総合学園と諸学園の支援によって、現在では奇跡の復興を遂げている。
♰
アリウス分校に関わる情報は、両校が和解に踏み出した現在でも学園の生徒会によって秘匿され、一般の生徒がその歴史に触れることは固く禁じられている。
本来ならば準禁書指定に相当する情報――彼女の指爪はすでに学園の心臓部に突き立てられているも同然だった。
フックスイッチに触れた受話器が短い反響を残して沈黙する。直後、室内は嵐の前触れのような薄気味悪い静けさに包まれた。それとは対照的に、机上のデスクトップ端末が映し出す情報の海は激しさを増していく一方だった。諜報員たちの活動状況や報告待ちの通信回線がすでに動き始めた歯車の存在を雄弁に物語っている。
――この夜、トリニティ総合学園では誰にも気づかれぬまま、厚い歴史のページに一つの転換点が刻まれた。
――背後の扉が閉まると部屋は一層静まり返った。
視界に映るのはフラットな天板の長机が一つと、同じ意匠の椅子が数脚のみ。外光を招く窓はどこにもない。等間隔に並ぶ照明から降り注ぐ冷光、それを雪原のように広がる白壁が反射し、部屋の影と言う影を追放する。優雅で荘厳な校舎とは似ても似つかない無機質で殺風景な箱。生活の匂いはない。対象を隔離し必要な処理を滞りなく進めるためだけの空間。そこが政府関係者のセーフハウスであると断じるのに時間はかからなかった。
部屋にいるのは連邦捜査部S.C.H.A.L.Eの先生を含めて五名。
トリニティ総合学園生徒会長・桐藤ナギサ。
正義実現委員会副委員長・羽川ハスミ。
シスターフッド代表・歌住サクラコ。
救護騎士団団長・蒼森ミネ。
いずれも学園に名を知らぬ者はいない重鎮たち。
だが、この面々が揃うなら本来侍るはずの側近や護衛が一人も見当たらなかった。歓迎の言葉はなく、ただ俯き沈黙する生徒たちの表情は一様に強張り、紅茶や茶菓子を用意する素振りすら見せない。形だけの儀礼すら排除された、彼女たちらしくない異様な光景と部屋に立ち込める緊迫感が、ここに連れて来られた訳を聞くことすら躊躇わせた。
――時を遡ること数時間前。連邦捜査部S.C.H.A.L.Eのオフィスにて先生は事務作業に追われていた。生徒との面談日時の調整、当番表の見直し、各種研修での報告書の提出、学園行事や協賛企業のイベントへの参加日時の確認、スピーチの原稿執筆――下へ横へと際限なく伸び続けるガントチャートを前に彼/彼女は頭を搔きむしる。しかしその様相に反して表情はさほど困窮していなかった。
多忙ではあるが充実している。一人の大人/教育者として少なくない生徒に頼りにされ、必要とされている――その事実こそが今の彼/彼女を形作る確かな支柱なのであった。
――今日も平和だ。机上のマグカップに手を伸ばし、湯気立つコーヒーに口を付けようとしたその瞬間、机上の携帯端末が微かに振動した。
<至急、指定の場所にお越しください。――桐藤ナギサ>
メッセージの送り主はナギサ――主要三派の代表が回り持ちで生徒会長を務める三頭政治を敷くトリニティ総合学園において、諸事情により今期のホストとなるはずだった百合園セイアに代わりその座を一任されているフィリウス分派の代表――だった。
礼節を重んじる彼女らしくない不躾な文面。呼びつける理由はおろか、肝心の場所を示すものも添付されていない。
一体何があったのか――そんな疑問を抱く暇すら与えぬかのように、突如としてオフィスのドアが開き、見知らぬ二名の生徒が躊躇なく室内に踏み込んだ。純白の制服にベレー帽、そして胸元で輝くマグカップと翼があしらわれた証。彼女たちの所属がトリニティ総合学園、それも生徒会であることは明白だった。先ほどのナギサからの連絡が脳裏をよぎる。
「ご移動願います。確認は到着後に」
質問は許されなかった。次の瞬間、二人に両の腕を取られ半ば強引に廊下に連れ出される。腕を掴む力強さから抵抗できる空気でないことが瞬時に察せられた。足早にエントランスを出た後、ビルの前で待機していた黒塗りのリムジンに押し込まれる。
一歩間違えば政治問題に発展しかねない一連の行為。しかし二人は驚くほど冷静だった。その表情は自身に課せられた命令に正当性があると確信する者のそれだった。
ナギサの言った「指定の場所」が、彼女の意思ではなく政治的な都合を前提にしていることだけが理解できた。シートベルト着用の有無も確認しないまま車は急発進し目的地へと向かう。その先がセーフハウスだった。
――そして現在。護送を担当したはずの二名の生徒はいつの間にか背後から姿を消していた。
「先生にお越しいただいたのは他でもありません。先日、校内で発生した爆破事件と、その直後に生徒会宛に届いた犯行声明についてです」
重い沈黙を断ち切ったのはナギサの声だった。平素の繊柔で聴く者を包容するような甘い声色も、今はしなやかさを失っている。顔を合わせるなり唐突に告げられた本題が心構えをする時間すら奪った。軽い世間話も拉致同然に連行したことへの謝罪もない。そんな時間すら惜しいと言わんばかりの硬質な険相。
道中の車内で、先生は簡単な要旨説明を受けていた。六時間前、警備区域で爆発があり、それと同時に犯行声明が届いた。そして事件の解決に当たりナギサ直々の指名で先生が召集された、と。しかし護送役の生徒たちは、まるで命令のみを聞かされているかのように無表情だった。深刻さを理解していない。或いは、そもそも知らされてすらいない――そんな様相だったことを彼/彼女は静かに反想する。
「知る必要」の原則――この状況下で動く情報は、極めて機密性の高い案件と考えるのが自然だった。場所がセーフハウスであることにも多少合点がいく。
「まずはこちらをご覧ください」
ナギサから手渡された数枚の写真。先生は束の間呼吸も忘れそれらを凝視した。瓦礫と化した部屋、焼け落ちた書棚、煤に覆われ元の色すら分からない壁材――。胸の鼓動は速度を上げ、冷たい雫が蟀谷から頬へ滑り落ちる。だが、気道を締め上げるのは事故現場の凄惨さではない。彼/彼女の意識を占有するのは、負傷者の有無と生徒たちの安否――ただそれだけだった。
先生の不安を他所に彼女は淡々と言葉を続ける。
「場所は会長執務室からほど近い機密資料室です。重要な文書も多く、一般の生徒が立ち入ることはまず不可能。ましてや爆発物の持ち込みと設置など……。信じがたい話ですが、内部協力者がいると見て間違いありません。早朝だったことで人的被害は最小限でしたが……これは、『生徒会長の命と学園の機密情報はすでに手中にある』というメッセージだと受け取っています」
犠牲者はいない――先生の双肩がゆっくりと降下していく。不安と恐怖の影が霧散し、徐々にクリアになる思考。そして同時に立ち込める疑念と言う名の霧。
――どうして、これほど大袈裟な呼び出しが必要だったのか。ここは銃社会である学園都市キヴォトス。十代の少女が戦車やガンシップを振り回す世界。場所がトリニティ総合学園なのが少々珍しかったくらいで、校内の爆発騒ぎなどキヴォトスではよくある事件の一つでしかない。通常なら学園の治安維持組織である正義実現委員会で処理できる規模のはずだった。
――ならば自ずと答えは絞られる。それは彼女たちを縛り付けるこの学園の“理”。脳裏に突如フラッシュバックした過去の記憶と嫌な予感が彼/彼女の皮膚を逆立てる。
――まさか。その予想は、すぐさま現実に姿を変えることになった。
「そしてこれが、事件発生直後に届いた犯行声明です」
ナギサが手元の機器を操作し、天井から大型のスクリーンが緩やかに降下する。部屋が闇へと沈み、プロジェクターがセピア色の書斎を背にして椅子に腰かける一人の少女を映し出した。五人の視線は一点に集約され、浅い息遣いが部屋に累々と沈殿していく。
一瞬の電子音の後、重くざらついた声が部屋を這い、一同の鼓膜を低く震わせた。
「ごきげんよう、ナギサ会長。そして、トリニティ上層部各位。私は元フィリウス分派、そして現在は『黎明の旗』代表の朝永ナツミだ」
先生と少女の双眸が正面から重なった。海中に沈む氷山を想起させる紺碧の眸。スクリーンから吹雪のように放たれる絶対零度の眼光が観る者を凍てつかせ呼吸を奪う。
プレッシャーに耐えきれず反射的に視線を外した先生。短く息を呑み、再度、少女の姿を上から下へと静かに追うように努めた。
壮麗なアンティークチェアに身を預けながらも、高くはみ出るように広がる輪郭。緩く波打つアッシュゴールドの長髪。襟元で揺らめく純白のクラバットに、双肩を装飾する金色のエポーレット。それは、古い貴族画から抜け出したような上品で典雅な装いだった。仕立ての良い衣服と隙のない所作が背後の家格を雄弁に物語っている。
その姿だけを切り取れば先の騒動を起こすような人物には到底見えない。
――しかし、映像の解像度は残酷だった。チークの下から透ける下瞼の濃い影。艶を失い、梳かす指先すら拒むかのように乱れた毛先。この地の純血の証である脊背の両翼は、羽がまだらに落ち薄赤の表皮が所々に見え隠れしている。
そして極めつけは優雅な装いの胸元を無縁量に覆う漆黒の防弾ベスト。高価なレースと軍用装備が同じ映像に収まる違和感。この歪さが、彼女が若き名家の令嬢などではなく、学園に白牙を向ける獰猛な戦士である事実を観る者にありありと突きつけた。
〈今朝の爆発についてだが……。あれは紅茶会が好む優雅な朝の時間に合わせて計画した軽い挨拶だ。過剰に驚かせる意図はない〉
学園の礼儀に則ってやっただけだ、とでも言いたげな一瞬混じる薄い皮肉。今朝の犯行を挨拶と言ってのける傲慢が彼女の底を闇に沈める。
〈事が円滑に運んだことについては“協力者”に感謝している。これまで腐りきった生徒会に属していたのが惜しいほどの優秀な人材たちだ〉
学園上層部の背信を示唆する発言。だが、そこに挑発の色は感じられない。淡々と語る中、「惜しい」の語だけに仄かな情が籠っていた。
〈我々の要求は三つ。『全ての派閥の解体』『生徒会権限の全面移譲』そして――『あの日の真実』を公開し、この件で退学を余儀なくされた私の同志たちへの謝罪と補償をしろ〉
静止画のようだった表情に突如生気が宿り、語り口には熱が帯び始める。しかしそれは「全ての派閥の解体」と「生徒会権限の全面移譲」などという大仰な要求に対してではなかった。その熱は三つ目の要求、その一点にのみ脈々と注ぎ込まれていた。「あの日」が一体何を指すのか――先生の疑問を他所に彼女は言葉を続ける。
〈第一回公会議から数世紀。学園政治は腐敗の一途を辿っている。学園の行末を決める会談も、個人の名声と権益を誇示する椅子を奪い合う“茶番”に変わり果てた。一部の特権階級が大衆の声に耳も貸さず、私情で学園を振り回す。それに異を唱える者は不穏分子として容赦なく排除された。それが我々だ……。――勘違いするな。これは復讐などではない。刻一刻と滅びへ向かう学園を救済するためだ。理念を分かち、責任を押し付け、派閥の面子を守る上辺だけの牽制を繰り返す――そんな形骸化した三頭政治を排し、我々の掲げる新たな旗の下で全ての生徒の意思を一つにする!〉
皮肉を弄ぶ余裕を見せていた冒頭から一転して、双肩のエポーレットを激しくたなびかせ嵐の如き剣幕で学園政治の腐敗を捲し立てるナツミ。組織の成り立ち、標榜する大義、その裏で蔓延る学園政治の欺瞞と陰謀――内に秘めるものを全て吐き出さんばかりの勢いは大気を伝い観る者の臓腑を震撼させた。
しかし、その威勢とは裏腹に先程までの冷徹な碧眼に微かな光が差す。それは憤怒でも憎悪でもない。喪われた秩序を悼むかのような――仄かな憂いを帯びた柔らかな光。その瞬きを先生の双眸は確かに捉えていた。
かつてこの地で対峙した生徒たち。理不尽な運命を背負わされ世界を敵に回しながらも、どこかで救いと報いを待っていたあの眸。ナツミのそれは彼女たちとよく似ていた。
一筋縄ではいかない――気を引き締めるように先生は襟元に指をかける。その動作と同時に、ナツミもまた自分の昂りに気が付いたのか言葉を切り短く息を吸った。指先でクラバットを整える仕草が奇妙なほど重なり、彼女の碧眼は再び常闇の海底へと沈んでいった。そして仕切り直すように肩をすくめ口を開く。
〈……私としたことが。貴様たちの中に“あの事件”の真相を知る者はもういなかったな。ただ一人を除いて――。ここで全てを話してしまってはつまらない。詳細はそこで動揺を隠せないでいるナギサ会長に聞いてみるといい〉
ここに来るまでに何度も映像を見返したのか、ナギサの表情に動揺は見られない。生徒会長として学園に混迷をもたらさんと画策する叛逆者を金色の双眸に捉え真正面から対峙している。
しかし、映像から放たれる白光がその虚勢を見透かすかのように、色白の額を伝う汗を、恐怖に震える脊背の両翼を、無慈悲に暴いていた。
〈貴様たちには少し時間をやろう。このメッセージから四十八時間後……それまでに要求が満たされなかった場合、自治区の人口密集地に設置した爆薬を起爆させ、事の真相を私の手で公開する。幕引きは自分たちで行うのか、私にさせるのか、選ばせてやろう――。妙な勇断は下さない方がいい。学園上層部にはすでに私の部下が紛れている。貴様たちの一挙手一投足は、この私、ひいては学園の生徒全てに監視されていると思え。約束の日まで、貴様たちはせいぜい“犯人探し”にでも勤しむといい……〉
要人しかいないセーフハウス、拉致同然の連行、形式的な儀礼も無く始まる要旨説明――点と点が繋がり、描き出されたのは学園に迫る未曽有の危機。それは三頭政治の均衡を揺るがす内部抗争の誘発。先生の脳内にエデン条約機構調印式の悪夢が鮮明に蘇る。
――しかしあの時と決定的に異なるのは、生徒たちの憎しみの刃が、対立するゲヘナ学園でも、テロを敢行したアリウス分校でも、黒幕である特定の個人でもなく、同学園の不特定多数に向けられるということ。
敵がすぐ隣にいる恐怖。疑心が疑心を呼び、これまで貯め込んだ、他者への不満や偏見、怒りの種子が一斉に発芽する。真実を追求する詰問と自己弁護に終始する詭弁が飛び交い、場を支配する逼迫感が正常な判断を奪う悪夢の花園。
あの血で血を洗う狂気の惨劇が、静かに、しかし確実に開演しようとしている。
全身から血の気が波のように引いていく。焦慮を隠せない彼/彼女を嘲笑うかのように映像の中のナツミは最後に言葉を残した。
〈それではまた……いい返事を期待している〉
映像から音が消える。スクリーンには暗い書斎を背に不適な笑みを湛えたナツミの姿が静止したまま映し出されている。ナギサの金瞳は彼女を網膜に焼き付けるように見開いていた。次の瞬間、投影は霧散し白布だけが残った。場を押し潰すような静寂の中、再び部屋が白光で満ちる。
「――ナツミさんは、かつてトリニティが誇る優秀な生徒でした……」
先生に背を向け、白い天井を仰ぎながら切り出したナギサ。脊背の両翼は低く撓垂れ、繊麗なホワイトブロンドの長髪には差すはずのない影が纏わりついていた。
優秀――その言葉とは裏腹に、どこか憂いを秘めた声色で彼女はナツミの経歴を語り始める。
♰
朝永ナツミ。十八歳。パテル、サンクトゥスと並ぶ学園三大派閥の一角、フィリウス分派有数の名家の生まれであり、その家系は過去に生徒会長も輩出していた。幼少期より生徒会長就任を見据えた英才教育を施され、学力、身体能力、統率力のいずれにおいても同年代を遥かに凌ぐ優秀な成績を収める。
一年次、家の指導方針に反発し実家を離れ身一つで正義実現委員会に入部。そこでも瞬く間に頭角を現し、翌年には異例となる二年次での副委員長就任を果たした。しかし、学園の法秩序を担う組織でありながら、派閥間抗争や政界案件への介入が制限されている現状に不満を抱き、在籍から一年ほどで退部。その後は組織に属さない個人での治安維持活動を展開した。そして、活動の傍らで各派閥の上層部とコネクションを築き、自らの思想に共鳴する生徒を束ねることで独自の影響力を形成していく。
三年次、当時の生徒会代表たちを人質とした立て籠り事件を主導。学園政治の改革を要求したものの、程なくして古巣である正義実現委員会によって拘束された。その計画性と影響力を重く見た学園上層部は、彼女の身柄をヴァルキューレ警察学校管轄である連邦矯正局へ移送することを決定する。
翌年、連邦生徒会長失踪に伴う行政の混乱に乗じた何者かの手引きにより矯正局を脱獄。その前科から「未明の革命人」と呼称され、各機関が足取りを追っているが行方は依然として不明である。
♰
「――以上が、“公式”に記録されているナツミさんの経歴です。ですが、今お話しした内容は先代の生徒会代表方によって改竄されたもの。ここにいる方たちには既にお伝えしたのですが、先生にも彼女について知っておいていただきたいことがあります」
先生に背を向けていたナギサがゆっくりと振り返る。ここから先に秘事はないという意思表示か、細い金瞳を閉じ短く息を吐いた後、静かに口を開く。
「一年前、ナツミさんは首謀者として裁かれたのではありません。一連の事件は、彼女の絶対的な求心力を恐れた、当時のパテル、サンクトゥス分派代表の謀略によるもの……。後に公表された立て籠り事件は、彼女の学園追放を隠蔽するための虚偽の物語です。この件は学園の最高機密事項として扱われ、犯行を裏付ける文書は全て破棄、彼女に近しかった者たちも、口封じのために無実の罪で退学処分が課されました。彼女たちは汚名を着せられたまま歴史の闇に葬られたのです……。彼女の語る『あの日の真実』とはこの事を指しているのです」
謀略、隠蔽、口封じ、汚名――整然と並べられる冷酷な真実。それらが一代限りの暴虐などではなく、脈々と続く学園の政治構造に深く根ざしたものであることは聞くまでもなかった。周囲の者は誰も口を挟もうとしない。真実が語られているという確信が言葉を奪う。
ナギサは淡々と語ろうと努めるが声の端々に揺らぎが混じる。それも無理はなかった。地上から隔絶されたセーフハウスの中とは言え、ここは規律と品格を重んじる由緒あるトリニティ総合学園。その生徒会長である彼女は、学園の暗部を赤裸々に語って平然といられる鉄面皮の持ち主ではなかった。
それでも彼女は言葉をやめない。
「私に真実を教えてくれたのは、先代のフィリウス分派代表です。その方は大病を患っており、退任後は入院生活を送っていました。引継ぎを兼ねたお見舞いに伺った際に事件の真相を明かしたのです。そしてその翌日、病院で静かに息を引き取りました……。先代は、謀略に気付いていながら何もできなかった事を最後まで悔やまれていました。――全てを知っていました。それだと言うのに、私も同じ構造に身を置くうち、自分の身可愛さに権力を振りかざし、他者を欺き、仇なす者を排除しようとしました……。――私も、先代方と同じ過ちを繰り返したのです……」
懺悔のような細い声で必死に言葉を紡ぐナギサ。その中で彼女の視線が一度だけ落ちる。金色の双眸に浮かぶのは、先代を死を悼むものでも、無情な現実に対する悲嘆でもない――深い哀れみだった。それは先代に対し、己に対し、そしてナツミに対しても向けられているようだった。
生徒会の代表である自分たちでさえ学園を構成する無数の歯車の一つでしかない。規格の合わない部品がどのような末路を辿るのか――それを知った先代とナギサは歯車となり、歴史をなぞる道を選んだ。選ばざるを得なかったのだ。派閥政治と言う名の社会構造に嚙み合わなかった「不適合品」――その集合体こそがナツミ率いる黎明の旗の正体だった。彼女たちは学園の規格そのものを変えることで剥奪された居場所を取り戻そうとしていた。
政治に人生を翻弄された者同士が、今度は政治の在り方を賭けて闘う――果てのない虚しさを噛みしめるようにナギサは言葉を締め括った。
「そして、そんな私の前にナツミさんは学園の叛逆者として現れました。これは歴史の必然――。彼女たちのテロ行為は学園に対する正義への問題提起なのです。私たちは問われています。この学園がこれから歩むべき道を――。何が正しくて、何が誤りなのか、その答えが出ることはないかもしれません……。それでも私たちは闘わなければならない――誰かがやるべきことなのです。今日まで紡がれてきた過ちの螺旋を今こそ断ち切らねばなりません!」
これまでにない力強い言葉。ナツミとの闘いを通して腐敗した学園政治に切り込むと宣言するその姿勢は、もはや虚勢ではなかった。学園の明日を背負う指導者たる毅然とした態度。先生は在りし日の疑心に溺れていた彼女の姿を重ねながら、その成長ぶりにしばし感慨に耽った。
しかし、その決意の裏側に潜む危うさも彼/彼女は同時に見抜いていた。確かな正義のない闘いに身を投じる事への迷いは今なお彼女の中に存在している。それでも彼女は迷いを捨てようとはしない。果てのない暗中で迷いを抱いたまま突き進むことを選んだ――そんな覚悟を思わせる様相だった。
その後、ナギサはハスミ――学園内の治安維持組織である正義実現委員会の副委員長を務める三年次の生徒――を一瞥する。短く頷いたハスミは、これまでの長い沈黙を破りその口を開いた。
「先生にお越しいただいたのは、事件解決を委ねるためではありません。この状況を打開する策は、すでに私が立案しナギサ様に進言しています。先生には、これからお話しする作戦への参与と、罪を背負うことになる者たちの心を引き受けていただきたいのです」
妥当な役割――それが先生の第一印象だった。自分たちの過ちは自分たちで清算する。その必然性と覚悟はこれまでの話から十二分に理解できた。だからこそ全身に染み渡る、責任の一端を部外者に預ける意味の重さ。
――そして自分が選ばれた。ならば、生徒の意志を尊重し、最善を尽くして応えるのが先生/大人として果たすべき役割/使命であると――。無意識に両の拳が固く締まる。
「サクラコさん、まずは現在の状況を」
ハスミの言葉でサクラコ――学園内の宗教組織シスターフッドの代表を務める三年次の生徒――が椅子から静かに立ちあがる。アイボリーブラックのグローブに抱えられた幾重にも重ねられた紙資料の束が、学園の状況がいかに逼迫しているかを否応なく物語っていた。
「朝永ナツミ率いる黎明の旗は犯行声明の直後、各組織に潜伏させたスパイに報道機関への内部告発を一斉に行うよう指示。また、組織に引き入れた生徒の情報をもとに、SNSやインターネット上で政治不信や派閥対立を煽るデマを流布しています。今朝の爆弾騒ぎと相まって、自治区は深刻な混乱状態に陥っています。外部からのマスコミも多く押し寄せ、生徒会に対するデモ活動も散見されるようになりました。ミカ様やセイア様、ツルギ様には現場で指揮を執っていただいていますが、事態は鎮静化するどころか悪化する一方です」
耳を塞ぎたくなるような学園の惨状。しかしサクラコは焦りに漆黒のベールを揺らすことなく、冷静に過不足なく状況を説明した。学園上層部では比較的温厚な性格と言える彼女だが、こういった危機的状況で見せる胆力が、彼女もまた人の上に立つ器の持ち主であることを再認識させる。
「シスターフッドの調査により、彼女たちは自治区内に拠点を複数築き、情報工作を行っていることが判明しています。しかし、拠点の総数や肝心のナツミの居場所は特定できていません。組織内のスパイもまだ判明しておらず、こちらの動きが筒抜けな現状では踏み込んだ捜査もできません……」
独自の情報網を持つシスターフッドの追跡をも搔い潜る組織の秘匿性の高さ。周囲の眼を欺き情報提供を続ける隠密行動に長けた優秀な生徒たち――。黎明の旗が盲目的に革命を訴える凡庸なテロリストではないことは明白だった。そして、対立意識の強い派閥幹部を懐柔し、一つの組織として束ね上げるナツミの常軌を逸した求心力と審美眼に一同は苦い感嘆を覚える。
サクラコの報告に捕捉する形でハスミが話を切り出した。
「こうなった以上、拠点をしらみつぶしに制圧するしかありません。しかし、拠点の中には金銭で雇われただけの無知な生徒らが管理する“ダミー”も存在しているようです。早まってこれらを攻撃すればナツミの思う壺。『ナギサ会長の命により、正義実現委員会が武力行使で事実を隠蔽』『無抵抗な一般生徒への発砲』。世間の目には当然そう映ります。世論は大きく傾くことでしょう。屈辱ですが我々は身動き一つとれないのが現状です……」
キヴォトスで社会問題になりつつある「闇バイト」を思わせる構図。ナツミが派閥という糸を丹念に編み込み作り上げた網目模様に一般生徒の異質な糸が煩雑に絡み合う。事態は正義実現委員会という一本の針ではほどききれないほど錯綜していた。
故に次の一手に自然と期待が高まる。この学園が持つ“もう一本の針”――その名が出ることを半ば予期しながら、半ば恐れながら、一同は固唾を呑んでハスミの言葉を待った。
「……そこで私は、ある組織に目を付けました。政治的、公的なしがらみに囚われず、武力介入を行えるだけの力と即応性を備えた、この学園の影の守護者――『トリニティ自警団』です。彼女たちに黎明の旗の拠点制圧を行ってもらいます……」
歯切れの悪い説明から零れ出た組織名に一同が驚愕の色を見せることはなかった。
♰
トリニティ自警団――連邦生徒会長の失踪後、学園自治区で頻発した他校の生徒による暴行事件に対処すべく、生徒たちが自発的に結成した非公認の治安維持組織。生徒が独断で武力を行使する性質上、その存在は法的に限りなく灰色である。しかし、彼女たちの活動は一貫して治安維持に終始し、過剰な制裁を避け、拘束した犯罪者も速やかに正義実現委員会へ引き渡してきた。その実績と節度から生徒会も彼女たちの存在を黙認している。
結成時期や団員の総数など不明瞭な点が多い組織だが、団員増加の背景には、活動の先駆者である守月スズミのヒーロー的活躍がSNS上で広まったこと、先の調印式でのテロを経験した生徒たちの危機意識の高まりが関係していると考えられている。
♰
特定の派閥や政治思想に属さない私的武装勢力――派閥抗争と政治不信が渦巻く今の状況において、彼女たちは一筋の光明となり得ると同時に、学園上層部の威信に影を落とす両刃の剣でもあった。
「非合法作戦ですか……こうなった以上、それしか方法はありませんね。時間がありません。早急に組織の要であるスズミさんに連絡を――」
ミネ――学園内の医療組織である救護騎士団の代表を務める三年次の生徒――の決断は一際早かった。医療従事者である彼女にとって、生徒たちが爆破テロの危機に晒されている現状は逡巡を許すものではない。学園上層部の面子と生徒たちの安全――天秤にかけるまでもなく答えは出ていた。加えて現場で働く部員たちの声から自警団の実力を把握していたこともその判断を後押ししていた。
だが、そんなミネとは対照的にハスミは次の言葉を躊躇っているようだった。僅かに俯いた顔に漆黒の長髪が影を落とす。組んだ指先は力み、肩は微かに震えていた。
「どうなされましたかハスミ副委員長……?」
「――この作戦には続きがあります……」
意を決して口を開いたハスミ。喉奥から絞り出すような細い声でその続きを語る。
「自警団が拠点を制圧後、正義実現委員会が彼女たちを、『自治区内での騒乱罪』で拘束します……」
雷の如き衝撃が心臓を貫き足先へ抜ける。その刹那、部屋の刻が歪むような感覚が一同を襲った。ミネとサクラコは思考に感情が追い付かないのか、目を剝き、視線をハスミに向けたまま凍り付く。
一方わずかに視線を伏せたナギサ。その表情には、すでに飲み込んだ毒を再び噛みしめるような苦悶を浮かべていた。
そして先生もまた反射的に顔を逸らしていた。否定や拒絶ではない。ここに至る話の流れから、この結論に辿り着くことを察していたのだった。罪を背負うことになる者たち――それは、ナツミたちだけを指す言葉ではなかった。
「学園中はすでに疑心暗鬼です。ナツミたちのデマによって敵意は分散し、正義はそれぞれの派閥に姿を変えました。だからこそ必要なのです……。『象徴』が……生徒たちの憎しみを押し付ける一つの的……。自警団に黎明の旗に代わる新たな公共の敵になってもらい、大衆の怒りを集めた後、我々が法的正義に基づき処罰します……!」
その言葉はもはや説明ではなかった。胸の奥底で押し殺してきた感情を耐え切れず吐き出した――そんな響きだった。誰よりも正義を信じ守り抜いてきたはずのハスミが最後に辿り着いた答え。
不条理な現実の刃が彼女の心を無残に切り裂く。倫理の崖淵に立たされながらも自暴自棄にならず、必死に冷静を装っているのがかえって痛々しかった。逃げることはおろか、泣き叫ぶことすら許されない立場。課せられた責務と言う名の糸が彼女の手足を絡め取り、操り人形のように悲劇の舞台に立たせている。
ハスミの言葉が途切れたその刹那、椅子が床を擦る甲高い音と共にミネが立ち上がる。セレストブルーの羽根を宙に散らし、修羅の如き剣幕で詰め寄った次の瞬間、ハスミの視界が大きく揺れた。制服の襟元が締め上げられ彼女の息が詰まる。足元が軽くなったと気づいた時には、靴底が床から僅かに浮いていた。それでも彼女は抵抗する素振りすら見せない。両腕は垂れ下がり、身を委ねるように脱力している。一七〇センチを優に超える長身を包む漆黒の大翼も、生を失くした鳥類の如く地に伏していた。
「彼女たちを怒りの捌け口にするとでも言うのですか⁈ 正気ですかハスミ副委員長……! それでは我々は、ただ同じ過ちを――」
言葉が最後まで紡がれることはなかった。襟元を掴む指先から徐々に力が抜け、ハスミの靴底が地面に戻る。触れている指先から微かな震えが伝わった。その理由にミネは初めから気付いていた。それでも言わずにはいられなかったのだ。
――平気な筈がなかった。正義実現委員会の副委員長でありながら、学園の危機を前に身動き一つ取れず、責任を自警団に押し付ける事しかできないこと。そんな彼女たちに汚名を着せ、自らの手で公に裁きを下さなければならないこと。騒乱の首謀者として扱われるであろうスズミが、ハスミの良き理解者でもあること――。この作戦を立案し先生を前に進言することが、彼女にとってどれほど屈辱であったか――同じく組織の長であるミネもまた、身を焼かれるほどの共感を覚えていた。
それでも彼女は引き下がろうとはしなかった。矛先を向けるべき相手がハスミでないことは理解している。だが、やり場を無くした怒りが両の腕を簡単には下ろさせない。
襟元を掴まれたままハスミは静かに口を開く。ミネを見下ろす真紅の双眸は表層を潤ませ部屋の灯りを一層反射していた。
「――他に方法はありません。我々はこの作戦をもって、長きに渡る闘いに終止符を打つ――彼女たちが、『最後の犠牲者』になるのです……」
冷や水を浴びせられたようにミネの相貌から熱が失われていく。何時になく弱気な翠玉色の細い視線がナギサに向けられた。まるで納得のいく答えを希求するように――。片時も離れず真っ直ぐに向けられるナギサの紅に染まった双眸と長い沈黙――それが答えだった。
ハスミの襟元が再度きつく締め上げられた後、力尽きたようにミネの両腕が静かに離れる。怒りはやがて無力感へと姿を変え、ミネはしばらくの間その場に呆然と立ち尽くしていた。
先生は一拍だけ間を置き、視線を部屋の全員にゆっくりと巡らせる。そこに責める色はない。生徒たちが自ら選び取った現実を決して曖昧にしないための確認だった。彼女たちが託した役割とその責任の重さを奥の歯で噛みしめながら、先生は静かに問いを投げかける。
「つまり私に、これから犯罪者になるであろうあの子たちに『どうか頑張ってね』と背中を押して、帰ってきたら慰めてあげて欲しい――そう言いたい訳だね?」
重い沈黙が返ることを承知の上で先生は言葉を続ける。
「……ごめん。嫌な聞き方をしてしまったね。でも、大事なことだったから。作戦の是非はともかく、私の役割については概ね納得しているよ。ただし、約束してほしい……。政治の都合ではなくスズミたちの意思を尊重すること。自警団のみんなも、そしてナツミたちも――学園で安心して過ごせるようにすること。君たちの本当の闘いは、この作戦が終わった後だよ。そのことを、どうか忘れないで欲しいな」
後悔と屈辱に濡れた相貌を拭い去り、四人の身体が先生に真直に向き直った。中心に立つナギサが、右手を胸元に添え厳かに宣言する。
「その誓約は――トリニティ総合学園生徒会長、桐藤ナギサの名において、必ずや果たして見せます」
先生は小さく頷く。それは承認でも、赦しでもない――彼女たちの覚悟を確かに受け取ったという合図だった。
輝きを追いかけたその先に
「スズミさんは、本当に真面目っすよね。でも無理は禁物ですよ。私らまだ一年なんですし、ほどほどに行きましょうよ!」
真面目な人――何をするにしても堅苦しく退屈な私を、皆さんはよくそう呼んだ。
きっと優しさだったのだと思う。だからこそ、その言葉を素直に受け取れない自分にうんざりしていた。
努力をすることが特別好きなわけではない。誰かに認められたいわけでもない。
ただ――「手を抜いている」と思われることが怖いだけだった。
昔からそうだった。一度走り出すと止まれない。先頭に立てば、今度は期待を裏切ることが怖くなる。そこに居るはずもない誰かの視線に、私はいつも追い立てられていた。
だからこそ、正義実現委員会は向いていると思った。保障された正義の下で、純然たる悪と闘い続ける――それだけが、ここでの正しさなのだと。ペースを気にする必要なんてない。目的に向かって走り続けていれば、私は特定の「個人」ではなく、組織を構成する「集団」になれると。背中を突き刺すあの視線に、もう怯える必要はないと――。
そう思っていた。でも違った。
皆さんは私のように闇雲に走り続けたりなどしなかった。適度にペースを落とし、時には寄り道もして、道端で誰かと他愛のない話に花を咲かせる。
皆さんはそれが普通だと言った。――何故か私にはできなかった。
走れば走るほど、心が離れていく事実だけが実感できた。離れていく理由は理解できないまま。
疲れてしまった。もう走るのは終わりにしよう――そんな時だった。“あの人”が、別の道を示してくれたのは。
舗装されていない自警団の道はとても走りづらかった。それでも他の走者や観客が少なくて気楽だった。人目を気にせず真っすぐに走ることができる。隣に並ぶ人はいなくとも、不思議と孤独ではなかった。私の背中を追う視線。突き刺すような好奇の目ではない、そっと触れる温かい眼差し。
どれだけ離れていても、心はすぐそばに感じた。それだけで、もう十分だった――。
私の先を走っていたあの人は今、違う道を走っている。あの人も、走り続けることしかできないのだろうか。
もし、私たちの道が交わる刻が来たら――私は、あの人を止められるのだろうか。
――あの頃の私は、自分の走る道が楽園に続くと愚直に信じていた。微かな輝きを追いかけた先に終着点はあるのだと。走り続けていれば、いつか必ず辿り着けると。
その道の本当の長さを知るのは、もう少し後の事だった――。
事件発生から、すでに十時間以上が経過していた。生徒会の見解は発表されず、SNS上では荒唐無稽な憶測が飛び交い、報道機関によってセンセーショナルに脚色されたデモ活動の様子が無数に拡散されている。人から人へと渡り、手垢に塗れた情報はもはや原型を失い、各々の都合の良い形に歪められていた。生徒たちの不振と憤りが臨界点に達するのは時間の問題だった。
先生からの連絡を受け、程なくして守月スズミ――トリニティ自警団に所属する二年次の生徒。自警団の先駆者であり、戦闘の際に非致死性兵器である閃光弾を多用することから巷では「トリニティの走る閃光弾」の異名で知られる――はセーフハウスに到着した。照明の白光が彼女の腰までかかる純白の長髪を際立たせ、反射した光が輪郭を淡く滲ませるその様相は、見る者に地上に降り立った天使を想起させた。しかし、煤でその色を深めた灰色の制服、白肌の腕や頬に無数に刻まれた細く紅い裂け目がそのイメージを一瞬で拭い去る。
つい先ほどまで、混乱の続く学園周辺を単独でパトロールしていたと言う彼女。ナツミの情報工作によって正義実現委員会は機能を停止し、生徒会に対する過激なデモの収拾がつかなくなったほか、騒ぎに乗じて強盗などを行う不良生徒が多数出現したため、それらを鎮圧するべく戦闘行為を行っていたと彼女は冷静に語った。
そんな中で彼女は先生からの呼び出しに一寸の迷いもなく応じた。事件収束への糸口が示される――そう期待して。まだ何も知らない粋然な様子が痛ましく映る。
一介の生徒であり、その実直さゆえに余計な重荷を背負いかねない彼女に配慮し、先生の判断で桐藤ナギサたちは席を外している。部屋に残ったのは、先生と羽川ハスミ、そしてスズミの三人だけだった。
やがてハスミは鉄の水門を開くように、スズミに対し作戦の要旨説明を始めた。ナギサ、先生に続く三度目の説明。スズミはハスミにとって元同僚であり、志を理解し合える良き友であり――そして、今回の作戦の要であった。
張り裂けそうになる心を荒く縫い付けながら絞り出すように言葉を紡ぐ。極秘事項であるナツミに関する情報は伏せられたままだった。
「――説明は以上となります」
ハスミは細い視線をスズミに向けた。左頭部の片翼が目元に影を落とし彼女の表情を覆い隠している。ただ、羽の隙間から覗く口元は固く噛みしめられ、線の細い身体は小刻みに震えていた。吐き出そうになる感情を喉元で必死に押さえつけるかのように。
――当然の反応だった。正規組織の後方支援も受けられない中、有志の集まりに過ぎない自警団を統率しテロ組織の拠点を制圧後、首謀者であるナツミの身柄を拘束する。そして、生徒会の威信と大衆のヘイトコントロールのため、自治区でテロに乗じて暴動を起こした首謀者として公に裁きを受ける――。それは、一介の生徒が背負える任務の範疇を遥かに逸脱していた。
報酬も、ましてや称賛も与えられない。学園の平和ため、これまで誰に命令されるでもなく守り続けてきた生徒に銃口を向けろという、余りに利己的で残酷な要請――。
しかしスズミは苦言の一つでさえ決して漏らさなかった。そのことが、かえってハスミの心をスクリューのように深く、荒く抉る。いっそのこと、彼女が酷く悪態をつきながら要請を拒否し、作戦が空中分解してしまった方が楽になれる――そんな黒い幻想が罪悪感と共にハスミの脳内を駆け巡った。
束の間の煩慮の後、ハスミの意識が現実に戻る。目前に立つスズミの紅眼が、ただ真直に向けられていた。そこには怒りも失望の色も無い。彼女の透徹した双眸に、苦悶に歪むハスミの相貌が反射していた。まるでその眸で全てを見透かしているかのように。
この状況で、まだ他者の心に寄り添う余力があるのか、まだ学園を信じようと言うのか――そんな生徒だから選んだのだ。
この決断は彼女と築き上げてきた信頼の城を自ら壊裂させる行為に他ならない。本人を前にしてハスミはこの作戦の重みを再び痛感させられていた。
先生は二人のやり取りに決して口を挟もうとはしなかった。ここで口を開けば、謹直な彼女は「選ぶ」のではなく「応えよう」とする。彼/彼女としてはそれだけは避けたかった。生徒の意思を尊重する――それはナギサやハスミに対してだけではない。もし彼女が首を横に振ればその瞬間に作戦は瓦解する。それでも彼女の選択を否定することはできない。誰にもさせない。その際は別の解決策を模索すればいい――それだけの覚悟をもって彼/彼女はこの場に臨んでいた。
「……お互い、損な役回りですねハスミさん。――少し、考える時間をいただけませんか。今日中に必ず答えを出しますから……」
スズミは静かにそう告げてから視線を先生へと向けた。誰かに救いを求め、縋るような眼差しではない。燃え上がる正義の焔と、その裏側にある他者を慈しむ温かい光――いつもの彼女の眸だった。
「先生。久しぶりに、“エスコート”させていただけませんか?」
先生は小さく頷いた。罪を背負う者の覚悟と心を引き受けること――その役割が今始まろうとしている。
ハスミは沈鬱な面持ちを浮かべながら、部屋を後にする二人の背中を黙って見送った。
デモ活動が過熱する学園前広場とは対照的に閑散とした繁華街。爆破テロを受け、ティーパーティーが発令した避難勧告に従い、生徒や観光客の多くは指定の避難場所へと移動している。つい数日前まで生徒たちの明るい活気に満ちていたであろうこの大通も、今では勧告を聞き入れなかった生徒か、火事場泥棒を狙う不良生徒が点のように散らばるだけとなった。立ち並ぶ店舗は軒並みシャッターを下ろし、等間隔に設置されたガス灯の灯りが黄昏時の街並みを淡々と照らす――テロの真っ只中とは思えないほど静謐で薄寂しい光景だった。
そんな街を先生とスズミは並んで歩いていく。二人の間に言葉はなかった。これまでのエスコートより、ほんの僅かに先生との距離を詰めて歩く彼女。周囲への警戒は怠っていないが、殺気や緊張感と言ったものも感じられなかった。街の沈黙にそっと耳を澄ませる静かな気配。それはまるで、この場所にあったはずの日常を悼んでいるかのようだった。
やがて彼女は一軒の店の前で足を止める。
「……ここは、『カフェ・ミルフィーユ』です。以前、友人に教えていただいて、パトロールの終わりに立ち寄る機会も増えました。それまであまり関心がなかったのですが、今では毎月の新作スイーツの発表を楽しみにしているんです……」
視線の先にあるカフェもまた臨時休業の札を下げ、灯りの消えた店内を沈黙のまま晒している。在りし日の光景を懐かしむように虚空に向かってゆっくりと語り掛けるスズミ。暗がりのショーウィンドウが寂寥の念を浮かべる彼女を朧げに反射していた。
――そこに映るのは、学園の命運を託された自警団の英雄ではない。この学園に通う素朴な一人の少女だった。
それに気付いた時、彼女の憂いを湛えた表情が、先生の脳内にフィルムカメラのように鮮烈に焼き付いた。いつも忘れそうになる、気丈な振る舞いの裏側に隠された彼女の繊細さ。
ハスミと同じだった――。
彼女の意思を尊重すると言いながら、最後には必ず皆が納得する答えを出すだろうと、心のどこかで彼女の誠実さに甘えていた。だから代替案も出さず、ナギサたちの要請を受け入れたのだ。本人を前にして先生は今更に良心の呵責を覚える。今からこの少女を学園が望む影の英雄に仕立て上げなくてはならない。
正義実現委員会を去った後も、ひたむきにパトロールを続けていた彼女。
正義であり続けること自体が報いなのだと、誰に怯むことなく語っていた彼女。
時に心無い言葉に傷つきながらも、自分を信じることをやめなかった彼女。
誰かを守り抜く力を求め、不器用なほど正しさを積み重ねてきた。その果てに待っているのが、こんな任務であっていいのか。これが彼女が望んだ結末だとでも言うのだろうか――。
――こんなことに君が関わる必要はない。そんな言葉が喉元のすぐそこまで出かかっていた。
しかし、口にすることはできない。ナギサやハスミの身を切るような覚悟を受け取っていたから。
それでも、スズミの背中を押すことはできない。彼女は政治の都合でこんな重荷を背負わせていい生徒ではないはずだから。
結局、先生の口から言葉は何一つ出なかった。今はただ、彼女の口から答えが出るのを待つことしかできない。
中立の立場で生徒の意思を尊重する――耳当たりの良いこの姿勢が、この状況においていかに無責任で保身的なものであるかを痛感させられる。沈みゆく太陽と共に先生の表情を影が覆っていった。
そんな先生の葛藤を知ってか知らずか、スズミはそれ以上は語らず次の目的地――彼女曰く、思い出の場所だと言う――へ向かうことを提案した。
公園、商店街、音楽CDショップ――彼女と巡った場所はどこも特別な場所ではなかった。多くの生徒は気にも留めない、あって当然の施設や店舗。しかし彼女は、そこでの思い出を一つ一つ丁寧に、まるで昨日のことのように語る。失って初めて気が付いた――と言うが、彼女は失われる前から、穏やかに過ぎていく日常の尊さを噛みしめていた。そんな語り口だった。
かつて会話は苦手だと告白したスズミ。そんな彼女が、これほど自発的に自分の事を話すのは珍しかった。しかし時間が進むにつれて翳り帯びていく彼女の声。言葉の端々に滲む――名残。それはまるで、遠い地へ旅立つ前夜、友人と何気ない思い出を確かめ合う学生のようだった。先生は胸の奥に微かな違和感を覚える。
――気が付いた時には、もう遅かった。
スズミは答えを探していたのではない。初めから答えを出したうえで、それを言葉にする準備をしていただけだった。彼女が次の場所を口にした瞬間、先生は悟る。そこが、このエスコートの終着点であることを。
「……最後に一カ所だけ、行ってもいいでしょうか。……星を。星を、一緒に見たいなと……」
彼女が指定したのは、遊園地だった。
遠回りをするようにして辿り着いた場所は、かつて先生がスズミと訪れた小さな遊園地だった。学園から距離があるためか、ここには避難勧告は発令されていない。施設は通常通り営業しているが、園内に人の気配はほとんどなかった。
あの日と同じく――いや、あの日以上に閑散としていた。爆破テロの影が学園を覆う中、わざわざここに足を運ぶ者などいない。この小さな園内にいるのは先生とスズミの二人だけだった。
やがて日が沈み、魔法がかかったように園内の照明が一斉に灯る。夜の闇を押し返さんと無邪気に輝く、メリーゴーランドやコーヒーカップを縁取る電飾の数々。珍しい来客を歓迎しているのか、乗り手のいない木馬が愉快な音楽に合わせ上下し、変わらぬ笑顔を振りまいていた。人のいない遊具だけが取り残されたように幻想を演出している。騒乱と緊張に満ちた学園から切り離されたこの場所には未だ仮初の平穏が残されていた。
無数の光源の中を二人は言葉を交わすことなく歩いていく。視線を惹きつけるはずの煌めきに目もくれず、その足取りはただ一つの目的地に向かっていた。
園の奥に佇む年季の入った観覧車が重低音を響かせゆっくりと回り続けている。派手な電飾はなく控えめな灯りが輪郭をなぞるだけ。乗客はいないが止まる様子はない。誰に見られなくとも己が使命を果たし続けるその姿に先生は隣にいる生徒の背中を重ねる。
「……それでは、行きましょうか」
係員にチケットを手渡した後、スズミは先に先生をゴンドラ内へと促す。それに従い乗車すると、彼女は無言のまま先生の隣に腰を下ろした。必要以上に距離を詰めることはない。ただ、離れもしなかった。先生も無暗に言葉を探そうとはしない。この沈黙が、彼女が望んだ時間なのだと直感が告げていた。
ゴンドラは静かに扉を閉じ、軋む音を立てながら上昇を始める。胸が高鳴るような浮遊感はない。刻一刻と「その瞬間」に近づいていく感覚だけが淡々と身体に伝わってくる。
窓から一望できる自治区は避難勧告により息を潜めるように静まり返っていた。この時刻ならまだ点いているはずの住宅街や施設の灯りが今日は少ない。その分、夜の空は広く澄み渡り、あの日よりもずっと多くの星々が漆黒のキャンバスを彩っていた。
「……綺麗ですね。今夜なら、本当に星が掴めてしまいそうです……。――先生、今日は長い時間お付き合いいただきありがとうございました」
「……いいんだよ。これくらい」
先生として当然の事をしたまで――そんな空元気を見せる余裕は彼/彼女にはなかった。結局、何も伝えることができないままここまで来てしまった。おそらくスズミは、すでに答えを出している。これから学園の命運を背負い犯罪者になるであろう彼女の心の拠り所になる――そんな甲斐性も見せられないまま、ただ傍観することしかできなかった自分を彼女は卑怯者だと思うだろうか――。失意のまま目を逸らすように見やった窓には、無力な自分を冷ややかに見つめるもう一人の自分が反射していた。
束の間の沈黙の後、スズミが言葉を続けた。
「――何も言わずに、最後まで私の話を聞いてくださったこと、本当に感謝しています。……気を遣っていてくださったのですよね。申し訳ありません……」
「それは違うよスズミ――私は、ただ……」
彼女は分かっている。先生が言葉を選んでいたのではなく、言葉を失っていたことを。それでも彼女は先生の沈黙を責めはしなかった。その優しさが罪悪感と言う鎖となり先生の心を締め上げる。
正義であり続けること――それ以外の方法で自分を表現する術を彼女は持たない。世界がそれを消耗品のように扱うと知りながらも彼女は闘うことを辞めようとしない。しかしそれが、彼女の選んだ生き方なのだと頭では理解している。
だが、心が拒んでいた。
誰かがやるべきことだと一人傷ついていくその背中を彼/彼女はそれ以上黙って見ていることができなかった。
スズミと学園――二つを載せた天秤が確かに揺れた瞬間だった。
――もう、十分だよ。そう口にしかけた先生を制するようにスズミは首を横に振った。
焦燥しきった先生に彼女は告解を聞き入れる聖職者のような慈悲深い眼差しを向ける。
「先生――私は、先生に何かを決めてほしくて、ここまでお連れしたわけではありません。以前、ここで言いましたよね。『これからも一緒にいてほしい』と……。私は、私たちは、ただ先生に見守っていてほしいだけなのです――私たちの『これから』を。上手くできた時は沢山褒めてほしい……。間違ったことをした時は目一杯叱ってほしい……。そんな優しい先生が、そばで支えていてくださるから、私たちは失敗を恐れず前へ進めるのです。ナギサ様やハスミさんも、きっとそのようなお考えで先生に想いを託されたのだと思います。先生は、先生のままでいいのです……。だから、悩まないでください。堂々としていてください。そして、見ていてください。私の決意を……」
ゴンドラの中にゆっくりと静寂が満ちていく。
気が付けば駆動音も風を切る音も聞こえなくなっていた。
夜空に掛かる待宵月の淡い光が窓越しに差し込み、車内をインクを零したように白く滲ませる。その光は現実の輪郭を曖昧にし、二人だけを世界から静かに分け隔てる。
夢の湖に沈んでいくような心地よい浮遊感。ほどけていく意識の中で、スズミの声だけが、近く、柔らかく脳内に響いた。
「私は、任務を引き受けます。私は何を守りたくて、何のために闘っていたのか――今日のエスコートでそれを再確認できました。ありのままの学園と、そこで出会った皆さんと築いた、かけがえのない日常を守りたい――それが、私の信じる正義です。……だからこそ、黎明の旗の行為を黙って見過ごすわけにはいかないのです。互いの憎悪を煽り、破壊と恐怖によって学園を統治しようなど……」
「――彼女たちに、『正義』があったとしても……?」
「……あの方々が言うように、これまでの学園政治は誤っていたのかもしれません。ですが、それを正す機会すら奪うやり方には納得できません。私は、この学園の、ナギサ様たちの『これから』を、もう少しだけ信じていたいのです……」
「――そのために、『犠牲』になってもいいの……?」
「……辛くないと言えば嘘になります。ですが、学園の惨状とハスミさんの覚悟を目の当たりにして、知らないふりをする方がもっと辛いです……。――それに、犠牲なんかじゃありませんよ。私は必ず戻ってきます。だから先生も、信じて待っていてください。私には私の、先生には先生の、やるべきことがあるはずです――」
――ガタン。
遠くで何かが噛み合うような鈍い音が響く。観覧車の駆動音だった。車軸の回転と共に止まっていた刻が再び動き出す。
白く滲んでいた車内の景色が徐々に輪郭を取り戻していった。窓の向こうに見える夜空は先ほどよりも少し低くなっている。
そのとき、先生は自分の眸の奥が仄かな熱を帯びていることに気が付いた。瞼を閉じれば今にも零れ出そうな感覚。
――ああ、そうか。
スズミはもう、大人の手を離れようとしている。ナギサと同じく、自分で選び、進む覚悟を決めたのだ。それだと言うのに、先生/大人としての使命感に気を取られ、彼女の想いを勝手に推し量り、その歩みを私情で止めようとしてしまった。
胸の奥に申し訳なさと、形容し難い寂しさが同時に込み上げる。言葉を選ぶ余裕はない。しかし、どうしても伝えなければならないことがあった。
「――スズミ。ありがとう……。ごめんね……。そして、月並みな言葉だけど、頑張ってね。いつまでも待っているよ。どんなことがあっても、私はスズミの味方だから……」
絞り出すような細くしゃがれた声だった。
「……ありがとうございます。そのお言葉だけで、もう、十分です――」
それきり、二人の間に言葉はなかった。
ゴンドラは緩やかに高度を下げていく。車内に響く駆動音だけが刻の流れを淡々と告げていた。地上に立ち並ぶ遊具の電灯が車内を包み込んだとき、スズミはそっと先生の肩に頭部を預ける。言葉も、視線も、交わることはない。先生はただ、その重みを受け止めたまま、眸を閉じ前を向いていた。
己が信じる正義を貫く前に、英雄でも、生徒でもなく、一人の「子ども」として、ほんの僅かな時間だけ許された――最後の甘え。それは、もう二度と繰り返されることのない仕草だった。
鈍い衝撃と共にゴンドラが地上に辿り着く。やがて音もなく扉が開き、車内に流れ込んだ冷たい夜風が二人を現実へと引き戻した。スズミは何事もなかったように身体を離し、名残を惜しむ素振りも見せずいつもの距離へと戻る。先に立ち上がり先生を先に促す仕草も変わりなかった。
二人は静かに地上へ降り立つ。足元の金属床を踏みしめた瞬間、背後で観覧車が低く軋んだ。重い機構が息を吐き切るように回転を止める。鈍い駆動音のリズムも徐々に失速し、やがて完全に止まった。
次の瞬間、乗り場を縁取っていた電飾が一斉に落ちる。煌びやかな灯りは嘘のように消え去り、非常灯の無機質な光だけが淡く足元を照らした。
二人は思わず視線を前に向ける。
つい先程まで、園内を賑わせていたメリーゴーランドは生気を失ったように速度を落とし、上下していた木馬たちも次々と眠りに落ちていった。それに合わせて周囲の電飾も一つ、また一つと順番に消えていく。まるで園内を包んでいた魔法が解けたかのように。残されたのは冷えた夜気と機械の惰性が擦れる微かな音だけだった。
やがて園内スピーカーから事務的なアナウンスが流れる。
〈生徒会より発令された避難勧告に伴い、本日の営業を繰り上げて終了します。来園者の皆様には大変――〉
抑揚のない音声が人気のない園内に虚しく反響する。それは、この場所だけに保たれていた仮初の平穏が崩れ落ちていく音に他ならなかった。自治区に残された最後の楽園を冷酷な現実が波のように浸食していく。
暗く静まり返った園内を見渡しながら二人は拳を固く握りしめた。――もう、逃げ場はない。しかし同時に、迷う理由も何処かへと消え去っていた。
先に歩き出したスズミは五歩ほど進んだ先で立ち止まった。暗雲が待宵月を覆い始め、彼女の背中を照らしていた光が僅かに翳る。月の光と雲の影を背中に抱いたまま、彼女は静かに口を開いた。
「――さような……いえ、行ってきます、先生……」
「――行ってらっしゃい、スズミ……」
純白の後ろ髪をたなびかせる大きな背中が闇夜の向こうへ消えるまで、先生は視線を離さなかった。
暗雲が月を完全に呑み込んだその時、彼/彼女は短く息を吐き、おもむろにポケットから携帯端末を取り出した。色のない世界で画面の光だけがその表情を白く切り取る。迷うことなくメッセージアプリを開き指先を滑らせた。上へ上へと流れていく生徒たちのアイコン。画面がある生徒の近影を捕らえたときスクロールする手が止まる。
「努力あるのみ」――ある種の諦念とストイックさが滲む飾り気のないステータスメッセージ。指先が通話ボタンの上で静止する。ほんのわずかな間の後、躊躇いを押し込むように押下した。
楽園が堕ちる日
事件発生から二十八時間。学園上空には大衆の心模様を描いたような鉛色の暗雲が垂れ込み光を拒んでいる。
学園前広場は生徒たちの熱気で蜃気楼の如く揺らいでいた。逃げ場を失った視線と行き場のない足取りが同じ場所へと流れ着いている。
――彼女たちは校舎からシャットアウトされたのだ。
自治区内に仕掛けられた爆薬の位置は依然不明。上層部に潜伏しているスパイの正体も掴めていない。事態を鑑みたティーパーティーは校舎を完全に封鎖することを決断した。スパイもろとも内部に閉じ込め、情報漏洩のリスクを承知で校舎そのものを対テロの前線基地にする強硬策に打って出たのだ。出入りは厳しく制限され、立ち入れるのは正義実現委員会やシスターフッドなど主要組織の上級生のみ。無関係と判断された一般生徒は自治区外の避難場所へ移送された。
生徒を安全な場所に避難させ、自分たちは腰を据えて黎明の旗と対峙する――学園上層部は、それを被害を最小限に抑える合理的な判断だと決定づけた。
――しかし、その思惑が正しく伝わることはなかった。唐突な線引きは追い出された者にとって拒絶に他ならない。さらに、混乱する生徒に追い打ちをかけるようにSNS上では、この一件は上層部の保身だとする説や、指定避難場所付近にも爆薬が設置されている可能性を示唆するデマが拡散された。
学園に蔓延る「真実」によって、逃げることも、留まることも否定された生徒たち。恐怖と怒りに崩れゆく精神を繋ぎ止められるのは「叫び」だけだった。
「テロリストはまだ捕まらないのか! 正義実現委員会は何をやっているんだ!」「爆薬の位置も分からないのに避難しろだなんて馬鹿言わないで! 私たちはどうなってもいいって言うの!」「自分たちだけ安全な場所に隠れやがって! 生徒会長は責任を取って辞任しろ!」
張り裂けそうになる喉を叱咤しながら、届くあてのない言葉を虚空に向かって投げ続ける。当然返事はない。校舎の白い壁はそれらを無慈悲に反射し意味もなく空気を揺らすだけだった。彼女たちの学び舎は、もはや群衆と上層部を隔てる境界線でしかない。
しかし彼女たちの叫びは一律ではなかった。やがて異なる音階の怒号が斜めから無遠慮に差し込む。
「なんで“魔女”が戻ってきているのよ!」「お咎めなしで生徒会に復帰ですって? ふざけないで!」「エデン条約をめちゃくちゃにしたのはアイツなんでしょ? 今回だってきっと……!」
横合いから飛んできた声が先の叫びを瞬く間に掻き消す。
「SNSの写真見た? “あの人たち”、もう普通に校内を歩いてるらしいよ……」「調印式にミサイルを落とした張本人が⁉ 冗談はよして……」「しかも生徒会の“保護”付きですって。護衛までつけてもらって!」「被害者は放置で、加害者はVIP扱いかよ!」「あっちの校舎の修繕費も学園予算から出たって話よ。こっちは壊された施設もまだ直ってないのに!」
叫びは事実を含んでいた。しかし語られるのは誰かが巧妙に切り貼りした「結果」だけ。そこに至るまでにあったはずの葛藤も、苦悩も、対話も、誰も見ようとしない。思慮を巡らせようとはしない。誰もが他者の言葉の表層だけを掬い、自分の正義のように声高に叫ぶ。最も過激な声だけが、いつの間にか大衆の「総意」として扱われていた。
言葉だけが独りでに走り出し文脈を踏み荒らしていく。その轍に、もはや意味は残されていなかった。
「生徒会は責任を取れ!」「アリウスを追放しろ!」「今はそいつらは関係ないだろ!」「何を言っているの⁉ すべては聖園ミカが……!」「誰でもいいわ……何とかしてよ……!」
数多の声が積み重なるも決して合唱にはならない。広場を覆いつくすのは憤怒の不協和音だけだった。
そして、その熱源から僅かに外れた位置。たった一人、口を閉ざしたままの生徒がいた。身に纏うのは正義実現委員会の制服。彼女はデモを制止するでもなく、かと言って加勢するでもなく、牧羊犬のように群衆の流れに視線を巡らせている。彼女は手首の腕時計に視線を落とした後、おもむろに左肩の無線機に指を掛けた。
「こちら、カサブランカ。――はい、いつでもやれます。――ええ、広場は随分な熱狂ぶりです。やはり図書委員会を引き入れたのは正解でしたね。真実と虚構を巧みに織り交ぜ、憎悪を煽る扇動的な文章に仕上げる……やはり言葉のプロは違いますね。――はい、任務了解しました。私が手を下すまでもなさそうですが」
花を冠する暗号名を口にしたその生徒は、無線機から手を離し視線を再び群衆に戻した。品定めするように右から左へと水平に流れる双眸が、ある生徒を角膜に捉えた所で静止する。細めた視線にぴたりと重なるシスターは、聖職者の衣を脱ぎ捨て、剝き出しの感情を大気に晒し、群衆の中でも一際声高に生徒会への激憤を喚いていた。神への信仰を囁くはずの神聖な口腔を穢い罵声に染め上げるシスターの成れの果てを前にカサブランカの口角が隆起する。
彼女は混じりけのない黒と赤に塗られたプルパップ式突撃小銃を硬く握りしめ、罠に掛かった獲物に詰め寄る狩人のようにシスターの元へ歩を進めた。
「おい貴様! こんな場所で何をしている。生徒会が発令した勧告に従い、直ちに指定避難場所へ移動しろ!」
シスターに避難を促すその声色は、舞台に立つ演者のように芝居がかった大袈裟な抑揚で自然と周囲の気を引いた。
シスターは漆黒のローブを激しく翻し額を擦り合わせんばかりの勢いで声の主に詰め寄る。
「はあ⁈ どうして私だけなのよ! そういうことならこの場にいる全員に言って聞かせなさいよ! 上層部が不祥事の火消しで揉めてる間、暇してるからってシスターにちょっかい出そうなんて、正義実現委員会も堕ちたものじゃない! 大体こうなったのもあんたたちが――」
一つの注意勧告に三も四も噴き出す罵声。頭上から油を注がれ烈火の如く怒り狂うシスターを前に、合格だよ――と、ぽつりと漏らすカサブランカ。その相貌は一瞬の笑み浮かべた後、誇張された絵画のような憤怒の形相へと豹変した。
「何だと? 我々の正義を侮辱するか……! 貴様こそ、その薄汚い口を慎んで聖堂で届きもしない祈りでも捧げていたらどうだ? 暇をしているのは我々なのか、貴様たちの言う神とやらなのか、すぐにでも分かるだろう」
「いい度胸じゃない……ナギサの“飼い犬”の分際で、正義が何だと大層なことを! かかってきなさいよ。私がその鬱陶しい首輪を外してあげるわ! それとも、威勢がいいのは口だけかしら?」
「……堪忍袋の緒が切れたぞ。貴様だけは……!」
その言葉と同時に腰が滑らかに落ち両拳が顎下に構えられる。相手の静かな闘気に一足遅れたシスターが力んだ頃には、既に漆黒のグローブが空を切り裂き眼前に迫っていた。先ほどの語気と相貌の厳しさに反して適切に脱力し真直に突き出された右掌底が、シスターの胸骨を正確に打ち貫く。硬直した筋肉は意識外からの衝撃を受け流しきれず、身体はドミノのように石畳に叩きつけられた。
短い叫号と胸椎が石畳を打つ鈍い音が広場の喧騒と視線を攫い束の間の静寂をもたらす。
上体を起こし鉛色の空を仰いでいた視線を前方に戻すシスター。反撃のために作った拳と復讐に歪む険相は、目前に突き付けられた現実を認知した瞬間にあっさりと解かれた。
彼女の視界を塞ぐのは黒鉄の孔穴。
「……え?」
――鈍く重厚な破裂音が響き渡る。低い振動が湿った空気を侵食し、観る者の鼓膜に残響のように長く、永く纏わりついて離れない。怒号も、足音も、風音も、一瞬にして無に還り、広場は開演直前のコンサートホールのような冷えた重圧感に呑まれた。
シスターの乾いた瞳孔が再び鉛色の空を仰ぐ。雪色の額に空の涙が一つ、また一つと零れ落ちる。風に乗った硝煙の香りと地面から這い出た雨の匂いが群衆の鼻孔に触れた時、束の間幽閉されていた意識が一斉に目を覚ました。
(撃った……正義実現委員会が、シスターを、撃った……)(いやだ……嘘でしょ)(噂は本当だったの……?)(次は、私が……やらなきゃ、やられる……)
――カチッ。
無数の軽い金属音が広場にこだまする。それは群衆を繋ぎ止めていた自制心が外れた音。
舞台の幕が上がり開演するのは、耳を劈く無数の銃声、薬莢が石畳を打つ金属音、狂乱に歪む群衆の怒号と悲鳴のフルオーケストラ。制止を促す微細なノイズも途方もない音圧を前に瞬く間に宙へと四散する。
誰が最初に撃ったのか、自分が討つべき相手は何処にいるのか、何を憎み何に哀しむべきなのか、そんな思考は群衆の脳内にはもはや雀の涙ほども残されてはいなかった。群衆を突き動かすのは極めてプリミティブな怒りと生存本能。遮蔽物も何も無い戦場に突如放り出されたストレスが交感神経を焼き切れんばかりに働かせる。視界はトンネルの如く狭まり、コルクを詰められたように鈍った聴覚が痛みに喚く生徒の断末魔を都合よく掻き消す。正当防衛という大義名分のもと罪の意識は緩和され、群衆は目前の敵にトリガーを引くだけの機械に豹変した。
やがて天から降り注いだ大粒の涙も、精緻な石畳に零れた夥しい紅血、そして憤怒に荒び切った群衆の心を洗い流すには至らなかった。学園の惨事を憂う天の哀しみは徐々に怒りを帯び始め、暗雲から閃光と共に怒号を吐き散らかしたが、その声が群衆の耳に届くことは終ぞなかった。
コンサートの主催者であるカサブランカは会場から忽然と姿を消していた。
「……だ、誰か……。お願い、誰か……」
阿鼻叫喚の渦の中心で誰か、誰かと譫言を繰り返すその少女は、頭部を嵐に曝された風見鶏のように激しく揺らしていた。地に腰を落とした彼女の胸に抱かれる正義実現委員会の少女は目を見開きぴくりとも動かない。渾然とした群衆の中で独り啜り泣くその姿は、母親とはぐれた迷い子のように酷く憐れだった。
嘆きに潤むその双眸は広場を一巡した後、磁石を近づけた方位磁針のように一点に引き寄せられる。視線の先には救護と慈愛を象徴するキャップの十字架。それは一寸先も見えない暗中に差し込んだ一筋の光明。
苦悶に歪む少女の相貌がすっとほどかれていく。黒衣の少女を抱き光へ一目散に走った。
「救護騎士団……ですよね⁈ お願い……わ、私の友達、助けて……! この子、流れ弾……私を庇って……それで、あの――」
高揚に先走っていた言葉はみるみると失速し、弛緩した相貌から色が引いていく。それは救助を確信した安堵からくるものではない。目前に立つ救護騎士団、その双眸に救済を懇願する己の姿が一欠けらも映っていないことに気付いたからだった。眸が捉えていたのは腕に抱く黒衣の少女、ただ一人。一粒ほどの慈愛も混じっていない冷徹な眼光が雨風と共に少女に容赦なく降り注ぐ。
やがて救護騎士団の少女は身を翻し、二人を一瞥してから忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「……お前たちのせいだ。地獄に堕ちろ――」
「――そんな……待って。行かないで……!」
茫然自失の霧を抜け、少女が上擦った哀訴を零した時には、既にキャップの十字架は渾然とする群衆の中に消えていった。
社会秩序の崩壊――底のない恐怖に震える少女の両脚は枝のように折れ、紅血と雨粒が滲む石畳に憐れに崩れ落ちる。
雨水をその身に吸い込みずっしりと重くなった黒衣の少女を胸に抱き寄せ、少女は鉛色の空に向かい降り注ぐ雨を押し返さんばかりの威勢で絶叫した。
「何でよ……! どうしてよ……! 誰か、誰でもいいから……。この子を……助け――」
――少女の哀叫がどこからともなく響いた破裂音と共にぷつりと事切れる。
石畳に横たわった二人の少女は誰の目にも留まることのないまま雨風に晒され続けた。
泣き止まない空。湧き上がる怒号。響き渡る銃声。枯れることのない悲鳴が広場を延々と満たしていく――。
喧騒に包まれた学園前広場とは対照的に、その郊外の一室は未だ冷えた静寂が充満していた。朝永ナツミはアンティークチェアに深々と腰かけ得物のメンテナンスに勤しんでいる。学園の革新を掲げる者にはいささか不相応とも言える華美な彫刻の施された旧い中折式回転式拳銃。そのシリンダー内部の煤をナイロンブラシで一つひとつ入念に落としていく様相は、まるで数時間前の惨劇が遥か遠方の地で起きた些末な時事だと錯覚するほど悠揚としたものだった。
組み上げた得物を左腰のホルスターに収め、溶剤に濡れた細い指先をクロスで拭い終えたとき、机上のレトロな電話機がけたたましく鳴り響く。
「そろそろだと思っていたよ『教授』。いかがかな? 余興にしてはまずまずの出来だと思うが」
雨粒の滴る窓ガラスを見やりながら淡泊に言葉を連ねるナツミは、室内の部下を一瞥し小さく右手を上げ合図する。程なくして現れた生徒会の証を持つ少女は、銀灰色のトレーから典雅なティーセットを取り出し淀みない所作でカップに紅茶注いだ後、彼女の隣に立ちマネキンのように静止した。
〈ええ、随分と楽しませていただきましたよ。これなら“メインイベント”にも期待できそうです。しかしよろしいのですか、そんなところでくつろぎになられて。せっかくの舞台を邪魔しようと目論む無粋な輩が“小道具”探しに躍起になっているようですが〉
「教授」という呼称に不釣り合いな未熟な声帯が奏でる金糸雀のような高い音色。芝居がかった抑揚で綴られる気遣いに憂心の色は微塵も見られない。
心にもないことを、と僅かに口角を吊り上げたナツミは湯気立つ紅茶を一含みした後、送話口に低くざらついた言葉を滑らせる。
「心配には及ばない……初めから無いものは見つけようがないだろう?」
〈……まさか〉
受話口の向こうの声が微かにくぐもった。
「ふふっ……期待させていたならすまない。だが言ったはずだ、大掛かりなことはしないと。いずれ私が治める学園だ、外面だけでも綺麗であるに越したことはない」
紺碧の眸がしっとりとした妖光で満ちる。おもむろに襟元のクラバットを整えると、給仕の少女が会話が途切れたと判断して彼女に耳打ちした。
「ナツミ様。カサブランカから報告です。予定通り群衆は校舎奪還を掲げ正義実現委員会と交戦に入ると思われます。事前の指示で爆弾捜索と避難誘導に人員を多く割かせました。陥落も時間の問題かと。上層部もこちらの口添えで三派統合の機運が高まっています。上は必ず折れます」
小さく頷いたナツミは送話口に向けて言葉を切り出す。
「再び日が昇る頃には群衆が校舎を攻め落としているはずだ。だが、奴らの中に指導者の器を持つ者などいない。大衆は自ずと新たな生徒会長を求める……」
〈そこであなたのお出まし……という訳ですか。『上層部の暗部を暴いたのは、かつて生徒会に存在を抹消された生徒会長候補』。いかにも大衆が好みそうなチープな筋書きですこと。恐れ入りましたよ……『未明の革命人』とはよく言ったものです〉
「舞台の準備は整った。後は役者を待つだけだ……」
〈……ほむ、あなたは一体誰を待っていると言うのですか?〉
「それを言ってしまっては面白くないだろう。貴様は今のうちにオペラグラスでも磨いておくといい……。それと、話が変わるが例の件は――」
先程まで悠然としていた相貌が明瞭に色を変えた。受話器を持つ手を握り直し、耳を押し潰さんばかりに受話口を強く擦り当てる。
〈もちろん存じ上げていますとも。すでに手の者には自治区からの撤退を命じています。そちらのお嬢様方は大変裕福でリテラシーも高いものですから……こちらも商売がやりづらかったのですよ。それがこれからは生徒会公認で『援助』をしていただける……。こちらとしても願ったり叶ったりです〉
その言葉が鼓膜を伝った瞬間、ナツミの双眸が細く絞られ下瞼の影はその色を一層濃くした。受話器を握る拳をギリギリと絞る音が、カタカタと怯えるティーカップの振動が大気を伝う。給仕の少女は額に冷たい雫を浮かべ固唾を吞んでいた。
ナツミは酷くしゃがれた声色で言い放つ。
「……勘違いするな。借りを返すだけ、これは正当な『取引』だ……!」
受話口の向こうに束の間の沈黙が訪れる。しかしそれは相手の威勢に気圧されたと言うより、返す言葉をじっくりと吟味する纏わりつくような間。その間がナツミの神経を一枚一枚削ぎ落していく。
〈ほむ、『正当』ですか……。果たしてその正しさを“今回は”誰が証明してくれるのでしょうね? 同志ですか? 大衆ですか? 政治、時代、それとも――〉
鳩尾を下から拳で抉られたような苦悶を浮かべるナツミ。蟀谷から雫を滴らせながら細い声色で返す。
「……何が言いたい?」
〈おっと、これは失礼……どうか気を悪くしないでください。ただの独り言ですよ。あなたの晴れ舞台、楽しみにしています。それではまた……〉
喉を撫でるような煽情的な嬌声を最後に受話器は沈黙する。
ナツミは湿った吐息を一つ零し前身の筋肉を弛緩させ後、極限まで圧縮された憤怒を一度に開放するように、収縮しきった左腕で受話器をフックスイッチに叩きつけた。
鼓膜を劈く金属音が残響する。彼女は額に大粒の雫をいくつも浮かべ、小刻みに震える左手で胸元をまさぐった。取り出したのは飴色の小瓶。動悸を荒げながら白い錠剤を五粒ほど口内に放り込み、虚空を睨みつけ磨り潰すように嚙み砕く。
突然の狂気に恐れ戦慄く給仕の少女を尻目に彼女は低く吐き捨てた。
「……下衆が」
――同時刻。トリニティ自警団が共有する救援要請用メッセージツールに、ある座標が添付された文章が送信された。
〈平和を望む全ての自警団へ――どうか皆さんの力を貸してください。――守月スズミ〉
勇気の旗のもとに(前編)
「あ、あの……あなたが守月スズミさんですよね……? こ、こんにちは! 宇沢レイサと申します! 私も今日から自警団として活動することになりました! 不束者ですが、よろしくお願いします!」
“あの人”に導かれ、自警団の道を走り出してから一年が過ぎようとした頃、閑散としていたこの道にもそれなりに多くの人が集うようになっていた。遥か後方にあった視線も距離が縮まり、今ではその足音をすぐそばで感じることができる。
誰かを追いかけるように走り出した私も、気付けば誰かに追いかけられる立場になっていた。悪い気はしなかった。あの頃の私のように進むべき道に迷っている誰かにとって、自警団の活動が一つの道しるべになっているのだとしたら、ほんの少しだけ自分に自信が持てるような気がしたから――。
「私が知っている中で……スズミさんが一番勇敢で、一番カッコいいんです! 初めて助けられたときから……スズミさんは私のヒーローなんです!」
自警団の中でも一際明るく、真っ直ぐに私を見つめてくれた“あなた”。初めはどう接したらいいのか分からなかった。追いかけてくれていると知りながら、一向にペースを落とそうとしない私を、あなたは薄情者だと思ったかもしれない。
それでも、あなたは付いてきてくれた。
何度転んでも、いくつ距離が離れようとも、振り返ればあなたは必ずそばにいた。
ずっと独りだと思っていた。独りでも、走り続けられると思っていた。
でもそれは、ただの自惚れだった。
ずっと支えられていた。後方を走る皆さんの優しい眼差しが、すぐそばに誰かがいる心強さが、私の背中を押してくれたから、ここまで辿り着けた。
そんな大切なことに気付かせてくれたのがあなただった。
少しずつあなたにペースを合わせていく私。前だけを向いて走っていた頃には見えなかった景色がそこには広がっていた。
あなたとなら、皆さんとなら、何処までも行ける。遅くたって構わない、一歩ずつでも前に進めるなら、いつか、きっと――。
――あの日、私は思い知った。
不変だと信じて疑わなかった正義に別の形があることを。
灰色の行為に手を染める限り、真の意味での楽園には辿り着けないことを。
――なら、この道しか走れない不器用な私たちは、何のために闘えばいいのか。皆さんをこの道に導いてしまった私は、これからどうすればいいのか。
“あの人”と言葉を交わした今、その答えがほんの少しだけ掴めたような気がする――。
黎明の旗が指定した時刻まで十八時間を切った頃。肌を逆立てる湿った冷気漂うシレンテ・アストラム聖堂――トリニティ総合学園の郊外に位置し、統合以前はシスターフッドの前身に当たるユスティナ聖徒会によって管理されていたが、統合に伴う本部移転により機能を停止。現在は廃墟と化しているが損壊が軽微なため自警団の作戦本部として歌住サクラコによって提供された。また上層部の計らいにより正義実現委員会の捜索範囲からも除外されている――の身廊で団員たちは救世主の登場を心待ちにしていた。
一時間ほど前に救援要請用メッセージツールに送信された座標付の文章。
〈平和を望む全ての自警団へ――どうか皆さんの力を貸してください。――守月スズミ〉
救援要請に応じたことは星の数ほどあれど、自らは決して行わなかった孤高の英雄。組織内でカルト的な尊崇を集める彼女が発した一通のメッセージは、混迷極まる内戦の最中であっても閃光の如き勢いで拡散し、学園内に散らばった灰色の戦士たちをその地へと集わせた。
讃美歌の代わりに雨粒が屋根を穿つ音だけが延々と響き渡る聖堂。ステンドグラスは積年の雨風に色褪せ亀裂が入り、斑模様に朽ちたセピア色の石壁と厚い埃の層に覆われた長椅子が、長きに渡り来訪者が途絶えていたことを痛切に物語っている。寂寥漂う怪しげな指定場所に一抹の不安を覚える一同。しかし、誰一人としてそれを口にしようとしないのは、彼女が幾度となく積み上げてきた信頼が盤石であることに他ならなかった。
スズミさんならきっと――心底に描く英雄像に期待を捧げる団員たちの鼓動に、ローファーが側廊のタイルを蹴る音が重なる。周囲の視線が祭壇に導かれたその刻、石柱の裏からその少女は現れた。天窓から差す暗雲の銀線を呑み仄かに曇った白髪をたなびかせ、祭壇へと続く大理石の階段を登るスズミ。背後に聳え立つ片側の横木が欠けた十字架に、左頭部から白翼を携える彼女の姿が奇しくも重なる。ステンドグラスの白光を纏う粛然とした佇まいは、朽ちた聖堂の中であっても厳かな神聖さを保っていた。
スズミは神託を静かに待つ団員たちを一望し短く息を呑む。やがて重い鉄扉を開けるように口を開いた。
「自警団の皆さん、まずは急な要請にも関わらず、このような場所にまで足を運んでくださったことに深く感謝します――。皆さんをお呼びしたのは他でもありません。現在、学園で勃発した内戦と、それを引き起こしたテロ組織である『黎明の旗』についてです。……残念ですが時間がありません。私が得た情報……そして、私たちに与えられた任務を手短に共有したいと思います。どうか落ち着いて聞いてください……」
スズミは正義実現委員会副委員長である羽川ハスミを始めとする学園上層部から提供された情報を冷静に過不足なく説明した。黎明の旗の犯行手口、内戦の勢力図、各組織の動向、生徒の避難状況――そして、自警団に下された「任務」の事を。
学園が未曾有の危機に曝されている最中で、日陰者である自警団に白羽の矢が立ったことに抑えきれない闘志を燃やす団員たち。そんな彼女たちを目にしてスズミは思わず作戦の“その後”を説明する前に口を噤んでしまった。
肝心のもう一声が喉元で引っかかるように、どうしても言葉にできない。
額に点々と滲む大粒の冷汗。正式な肩書ではなくとも一組織を預かる長として、ここまで付き従ってくれた同志たちを先の見えない暗澹とした道へ導くことの重責を肌で痛感する。学園の平和と、個人の未来――ハスミ、先生に続いて、スズミもまた両者を天秤にかける覚悟が試されていた。
(ありのままの学園と、そこで出会った皆さんと築いた、かけがえのない日常を守りたい――それが、私の信じる正義です)
かつて先生に語った信念を静かに反芻する。その「日常」には自警団も含まれているはずだった。そこで彼女は気付いてしまう。息の通った生身の団員たちを前にしたことで、自身がいつの間にか個人の信念と組織の意思を勝手に同期させていたことに――。彼女たち一人一人にも代えの効かない人生があるという当然の事実に――。
(……とんだ思い上がりです。私はいつから、誰かの人生を天秤にかけられるような人間になったのでしょうか……。結局、私の正義は独り善がりでしかないのですか……? 先生……)
脳内を延々と駆け巡る煩慮に額は俯き、肩を小刻みに震わせるスズミ。彼女が浮かべる深刻な面持ちに、先ほどまで熱に浮かされていた団員たちも徐々に気付き始める。
――どんな危険が伴おうと、私はあなたに付いていきます。さあ、次のご指示を。
この先に待ち受ける過酷な運命を知らない粋然な眼差しが次々とスズミに向けられていく。聖堂に立ち込める期待の籠った沈黙が、彼女の双肩に大理石の如き重量で伸し掛かる。
(この先を話せば、皆さんは、もう……)
全身を襲う痙攣と、奥底から湧き上がる激しい嘔吐感に苛まれながら、彼女は砂粒ほどの望みに賭けてその口を開いた。団員たちを正義の奈落へと道連れにする罪悪感を押し殺して――。
「――この作戦には続きがあります……」
スズミは持ち得る全ての情報を話した。期待に強張っていた団員たちの相貌が血を抜かれたように蒼白してく。聖堂を包み込んでいた熱気は、一瞬にして息をも凍る重厚な冷気へと豹変した。
要請に従えば「テロに乗じて反乱を企てた暴徒」として。
拒否すれば「学園の危機を前に逃げ出した腰抜け」として記憶される。
この場所に集った時点で、スズミの声を聞いた時点で、彼女たちにこれまでと同じ生活へと戻ることは許されなかった。己が正義を信じ、邁進し、人知れず学園の平和を守り続けてきた彼女たちの目前に突き付けられたのは「共犯者」と「腰抜け」の二つの烙印。そのどちらかを身に焼き付けて生きていくことを他ならぬ憧憬の対象であったスズミに強要されている。
どうして、私たちが――敬意と昂揚に満ちていた団員たちの眸に失望の色が滲み始める。未だかつて向けられたことの無い冷酷な視線にスズミの心は氷河に閉ざされようとしていた。
――やはり、私には無理だったんです。
絶望に潤む紅い眸を閉じ、祭壇から立ち去ろうとした、その瞬間だった。
「私はやります!」
彗星の如く瞬いた宣言が暗々とした沈黙を切り裂き聖堂に残響する。一人の戦士の誓いに応えるように鉛色の空は泣き止み、やがて雲間から降りてきた天使の梯子が窓を抜け、声の主をスポットライトのように照らした。
スカイブルー、ラベンダーの入り混じるパステルカラーの後ろ髪を陽光に輝かせながら、宇沢レイサ――トリニティ自警団に所属する一年次の生徒。スズミに窮地を救われ以来、彼女を憧れの人と仰ぎ精力的に活動に参加している。普段の掴みどころのない発言が災いして誤報を疑われることも多く、スズミを始め団員たちの間ではトラブルメーカーとして認識されている――は聖堂を揺るがさんばかりの声量で祭壇に向かって言い放った。
「私はやります……やらせてください! スズミさんを独りで闘わせたりなんか絶対にしません! ……お借りした恩を返せる日がやっと来たんです。政治や派閥なんてさっぱり分かりません……。それでも私は、スズミさんが必死になって守ろうとしてるものを、一緒に守りたいんです! たとえ誰にも理解されなくとも、悪者だと罵られてもかまいません……。自分の正義を信じて闘う――それが、スズミさんから教わった自警団の誇りです! 最後まで闘います、どんなことがあっても……」
眼輪筋を振り絞り、まだ見ぬ自警団の明日を見据える曇りなき双眸。天を貫かんばかりに愛銃を掲げ賛同の意を表するその様は彫像を思わせる堂々とした出で立ちだった。彼女の勇ましい宣言が聖堂を支配していた沈鬱な空気に風穴を穿つ。
一年次の厄介児が啖呵を切って見せた燦然たる勇姿に、周囲の団員たちは深い敬畏と乾いた忌諱の絡む錯雑とした視線を向けた。
――私には無理だ。
誰もがその眩い光源から目を逸らそうと視線を落とした時、一同は直視する。
雷が神経を迸るかの如く不随意に痙攣する両脚を。
天に掲げられた左腕と対照的に、影の下で身体を這いずる恐怖と闘う緊縮した右拳を。
レイサを中心に蠟燭の灯火のような仄かな熱が自警団の心をじんわりと伝わっていく。
――そうだ、私たちは。一同は固く握りしめる、自警団の証を。
――何のために闘っていたのか。一同は静かに反芻する、この道を志した理由を。
――あなたを独りにはさせない。一同は視線を定める、祭壇に立つ英雄に向けて。
一つ、また一つと、レイサに続き賛同の意を表するため掲げられていく銃器。それは身廊に咲き乱れる銃器の花園。重厚な沈黙が支配する聖堂に広がったその光景は見る者に戦場の墓標を想起させた。祭壇に立つスズミの胸中を深い謝恩と罪悪感が肺まで満たし、眸の奥から湧き出た熱い雫が視界を曇りガラスのように滲ませる。
生徒を守る、その矜持を捨て学園の平和に殉ずると誓った自警団の墓――歴史の闇へと消え逝く運命の亡霊たちに、スズミは正義実現委員会退部以来の敬礼で応えた。
束の間、聖堂を硬質な一体感が包み込む。それは単独行動の多い自警団にとって信じるに値する心強い加護であった。しかし、彼女たちの心象は決して穏やかなものではない。制圧対象の拠点の総数、学園前広場での戦闘の規模、誰がどう見積もっても現状の戦力では不足していることは明白だった。だが敢えて口にする者はいない。一度口から零れ出たそれは心の灯火を搔き消すには十分すぎる風力だと悟っていたからだった。
聖堂を再び重厚な沈黙が覆いつくす――その刻だった。
背後の扉が開け放たれ、白光を身に纏う二人の人影が一同の前に姿を現した。
「おお、やってるやってる。自警団の会合ってのはここで間違いないみたいね。……しっかし、場所と言い、空気と言い、この陰気臭さはどうにかなんないの。あんたら、これから葬儀でも始める気?」
ロングスカートを風に靡かせ気怠そうにジョークを零す人影は、散弾銃をバレルから握り肩に掛けるヘルメット姿の少女。
「うわ……自警団ってこんなにいるの……。おーい宇沢。いるなら返事しなよ。うーざーわー!」
そう友の名を呼ぶもう一つの人影は、パーカーの上から子供の背丈ほどの銃身長を誇る軽機関銃をぶら下げた獣耳の少女だった。
最後に
拙い作品でしたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
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